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韓国系アメリカ人ブッカーの話

韓国の格闘技ニュースサイト『MFIGHT』が在米韓国系エージェントのジョン・ハンという人物にインタビューをしている。このインタビューでは、ストライクフォースのスコット・コーカー氏に韓国人の血が流れているという、あまり知られていない情報もあるので、以下に紹介する。

※※※※引用開始※※※※※

――まずは自己紹介をお願いします。
ハン 名前はジョン・ハン(JOHN HAN)。米国カリフォルニア在住でMMA関連のエージェントをしている。現在は“MMAエージェント”という会社でケン パビア(フィル・バローニ、ブレット・ロジャースらのマネジャー)と協力しながら、韓国やアジア選手の招聘業務、また選手のスポンサー問題やMMA団体との交渉についても担当している。MMA以外の仕事もしているが、現在は格闘技の仕事に多くの時間を割いている。

――エージェントとしては、どんな仕事をしていますか?
ハン 韓国の選手がアメリカに進出する手助けをしている。正確に言うと、アメリカを含め、世界中で活動しているさまざまな団体に、韓国選手を紹介する仕事をしている。現在、韓国にいるエージェントの紹介でコリアン・トップチーム(KTT)のハ・ドンジン監督と知り合い、KTTの所属選手やいくつかのチームの選手のために動いている。

――アメリカの市場において韓国人選手や韓国のMMAに対する認識はどのようなものですか?
ハン 何人かの韓国人がメジャーイベントに進出したことで注目は集まりつつあるが、中小団体が韓国内にないこともあり、それ以外の選手についてはほとんど知られていないのが現状だ。アメリカでもプロモーターと話をすると、「強い選手がいそうだが、試合ができずにいる選手たちが多く、まだ成長を見守る必要がある」といった話がよく出る。

――UFCで、キム・ドンヒョン、秋山成勲、デニス・カーンなどの韓国系ファイターが活躍しているが、アメリカにおける彼らの評価は?
ハン アメリカではキム・ドンヒョンが最も有名だ。“スタンガン”というキャッチフレーズで多くの人々が「彼の技術は非常に素晴らしい」と評価している。ただ、もっと大きな試合を行なうためには、もっとたくさん試合に勝つか、派手なKOを見せなければならないだろう。UFCで最高の地位に立とうとするなら、勝ち星以外にも“ほかの何か”を見せることが必要だ。外国人選手であるなら、なおさらだ。韓国で作られた秋山成勲とデニス・カーンの因縁やストーリーといったものは、アメリカ、とくにUFCでは何の役にも立たない。秋山はUFCでまだ1試合しただけなので、どうとも評価することはできないが、相手のアラン・ベルチャーはUFCのトップランカーではなかったので、今後はもっといい試合を見せなければならないだろう。デニス・カーンは前回の試合で、ある程度自信を取り戻したようなので、これからもチャンスはあるだろう。

――アメリカでMMAはスポーツ産業全体の中では、どの程度の比重で発展しているのでしょうか? 
ハン もちろんメジャースポーツと比較すれば、まだ足りない部分も多くあるが、MMAは本当に恐ろしい速度で成長しており、無限の可能性を秘めている。ここ数年の内に世界で最も有名なスポーツになる可能性もある。とくに若い年齢層からの反応が熱いし、アマチュア大会や柔術、MMA同好会、ジムなど、時間がたてばたつほど、さまざまな部分で発展していくことが予想されるので、未来は非常に明るいと言えるだろう。

――UFC以外のMMAイベントはどんなものがあるでしょうか? 
ハン ストライクフォース、ベラトールFC、『アフリクション』などがいわゆるメジャーイベントと言えるだろう。ただ、『アフリクション』にはいろいろな不安要素がある(インタビュー時は『アフリクション』崩壊前)。また、すべてをお話するわけにはいかないが、ヨーロッパでも速いスピードでMMAが拡大していて、中にはレベルの高い大会もある。近い将来、ヨーロッパにも大規模なMMAイベントが出てくるのではないかと見ている。

――アメリカのMMA主催者の中で、韓国進出を計画している組織はありますか? 
ハン 現在、ベラトールFCのシーズン2で韓国人選手を起用する話を進めている。選手を招聘する以外にも放映権の交渉など、いろいろと進めるべきことが多いので、それぞれよい結果が得られるよう努力している。多くの方々の関心と応援が必要だ。うまくいけば、それぞれ4階級のトーナメントに韓国人選手が出場できると思う。

――ストライクフォースのスコット・コーカー社長が韓国系と聞きましたが、本当ですか? 
ハン 事実だ。私も最初は驚いた。ハインズ・ワード(NFLのスター選手で母親が韓国人)のように、アメリカ格闘技界において、最も有名な韓国系の人物の一人ということになるかもしれない。韓国系アメリカ人という事実が非常に嬉しかった。お母さんが韓国の方だそうで、コーカー氏自身も生まれてしばらくは韓国で過ごしていたという。ただし韓国語をほとんどできない。記者会見で初めて会ったとき、私が韓国人であることを知って私に韓国語で挨拶してきたことがあったよ。
現在、彼のストライクフォースとも選手のブッキングや韓国進出について意見を交換しているところだ。次に会ったら韓国名があるかどうか聞いてみたいな。

――最後に韓国の格闘技ファンに一言お願いします。
ハン このビジネスを成功させることが一番の目標だが、これからもずっと努力することを約束するし、そうすることでいい結果もお知らせできると思う。韓国の格闘技市場はバブルが弾けてしまったという気もするが、まだまだ熱意や関心を持って協力してくれる方も多いので感謝している。わずかなスター選手だけでなく、多くの選手に関心を持ってマスコミやファンの人が応援してほしい。そうすれば多くの選手が大きく成長できるだろう。韓国にはそういう選手がたくさんいる。負担も大きいのも事実だが、最善をつくして韓国の選手にとっていいチャンスが得られるよう、努力を続けるつもりだ。韓国格闘技界がまた活性化されるのならば、ケン・パビアが率いる50名の選手を韓国の大会に出場させることも可能だ。その他、問い合わせや事業提携などの依頼があれば、
korea@mmaagents.comに問い合わせてほしい。

※※※※引用終了※※※※※

スコット・コーカーに韓国人の血が流れているからって、日本人的には「それがどうした?」という話なのだが、韓国ではこれまでに秋山成勲、デニス・カーンという韓国系のスターファイターが韓国で大人気を博していることから、韓国格闘技界においてはけっこう重要なニュースなのだ。ただし、これまでの活動を見る限り、ストライクフォースが韓国人を大量に起用したり、韓国大会を開催するなどといったことは考えにくいが、少なくとも韓国人的には少し親近感の沸くイベントになるだろう。

それよりも韓国では少し前にベラトールFCのビヨン・レブニーCOOがチーム・フォースのハン・スーファン、キム・デウォン、そしてKTTのソ・ドゥウォンらの名前を挙げて、ベラトールFCのシーズン2に参戦する可能性があると言っていたが、これでブッキングを担っていた人物がジョン・ハン氏であることが判明した。最近、日本であまり姿の見られなくなったKTTやチーム・フォース勢が、いよいよアメリカに進出する覚悟を決めたようだ。

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チョン・ジェヒとは何者か?

jaehee.jpgK-1 MAXでの山本“KID”徳郁のKO負けは凄まじいインパクトがあった。当日、僕はコメントブースでこの試合を観ていたが、僕だけでなく観ている関係者や記者すべてが騒然としてKIDのKO負けにド肝を抜かれていた。

KIDをKOしたチョン・ジェヒは、勢いのあるKIDのパンチを冷静にスウェーで見切って、カウンターでアッパーを組み込んだコンビネーションを当てていたように、非凡なセンスの持ち主であることはわかった。しかし、いったいどれほどの実力者なのかについては、情報が少なくわかりづらいという点もあるので、MAX開催前に韓国の『MFIGHT』が掲載していたチョン・ジェヒのインタビューを紹介したい。

kamipro.comでの韓国格闘技情報で紹介することも考えたが、K-1 MAXの前は『UFC100』などの注目大会が多かったこともあり、残念ながらその掲載を見送っていた。ここであらためてその記事を紹介したい。インタビューは7月8日に掲載されたもの。

※※※※※以下、『MFIGHT』からのインタビュー全文※※※※※※

――タイではどのように練習してきたのか? 
ジェヒ プーケットで8ヵ月、バンコクで3ヵ月、合わせて約11ヵ月練習していた。できれば韓国で練習したいが、どうしても環境がよくないので本場でレーニングしたと思った。とりあえず3年間の計画だったが、とりあえず1年やってみて、ムエタイとK-1はちょっと違うなと感じている。今回の試合が終わったら、トレーニング場所を日本に移すかもしれない。

――ニックネームは“闘鶏”になっているが、理由は? 
ジェヒ 自分は背が低いのでインファイトをするしかないし、性格的にも闘うときに、相手の顔色を見て闘うのが好きではないから。ただ、練習をずっと続けているとあまり緊張もしなくなったし、ずいぶん余裕もできた。以前は何も考えずに闘っていたが、いまは相手の弱点を見つけて冷静に試合をしようとしている。

――ムエタイとK-1はスタイル的に違いがあるのでは? 
ジェヒ まず基本的なリズムはムエタイのスタイルに行くだろう。1ラウンドのゴングが鳴れば何度か蹴ってみて相手を把握するつもりだ。だが、様子を見るのは30秒だけだ。そのあとは新人のときのようにインファイトに徹するだろう。3ラウンドは最初から考えないでいる。 2ラウンド中に勝負の賭けに出るだろう。KIDが倒れるか、自分が倒れるか、二人のうち一人はマットに寝ているだろう。日本の記者がインタビューしにきて「KIDのパンチは本当に強い」と言っていたが、自分にはよくわからない。自分も簡単にKOできる選手ではないし、全然怖くない。真っ向勝負をする。

――KIDはどんな選手だと考えるか? 
ジェヒ じつは彼は自分の好きな選手だった。兵役で軍隊にいるときからKIDを観ていたが、常にKOを狙うスタイルなので好きだった。もちろん硬そうで筋肉質な身体も好きだ。ただ、打撃の技術はトップクラスであるとは思わない。打撃も練習した方法によってできたものではなく、変則的で本能的なスタイルだと思う。本能を重視する点は自分と似ている。違いがあるとするならば、KIDはエリートアスリートだったが、自分はジムでトレーニングを積んだという点だろう。怖くはないし、むしろ試合をするのが楽しみだ。

――KIDは日本の格闘技界で最高のスター選手だ。韓国の選手として、このようなチャンスはめったにないが、今回の試合はあなたにとってどんな意味があるのか?
ジェヒ 簡単に言うとLOTTO(ギャンブル)のようなものだ。KIDは日本の英雄だし、誰も自分が勝つとは思っていないだろう。彼は強い選手だから。勝てば大当たりだが、負ければただ2000ウォン(約150円)を失なうだけだ。俺に失なうものは何もない。ギャンブルで勝つかどうかは自分の能力次第だ。韓国の60キロ級に、こんな選手がいるということを日本の観衆の目に焼き付けたい。

――KIDをどのように分析しているか? 
ジェヒ とりあえずスピードがいい。パンチは一発もらえばダウンしてしまうかもしれないが、俺もバカではないので簡単にはもらわない。当てられるものなら当ててみろ。当てられない自信はある。自分は簡単にKOされる選手ではない。

――今回の試合で準備したことは?
ジェヒ 特別な作戦はない。もともと左の蹴りが自分の中心的な武器だが、今回は相手がサウスポーなので右足の蹴りをたくさん使うことになると思う。KIDは自分よりも体格がいいので、タイでは大きな選手を相手にスパーリングをたくさんしてきた。ダウンもさせられたし、目にもアザができた。相手の動きにどう反応するかという作戦はある。だが作戦は作戦であって、リングの上では本能的に動くつもりだ。

――日本のK-1本戦は初めてだが、緊張すると思うか? 
ジェヒ 自分ではまったく緊張しないと思っているが、ほかの人は自分が緊張すると思っているようだ。タイのラジャダムナンスタジアムで試合をしたことがあるが、最初はタイの観客の熱気とその施設に驚いて緊張した。だが慣れてからはよくなった。日本でもある程度は緊張しそうだが、それは自分自身で解決しなければならない問題だ。

――日本での試合なので、一方的な応援とKIDに対するホームアドバンテージがある可能性もあるが、それは気にするか? 
ジェヒ 少し前にMAキックに出場したことがある。自分が登場したときは冷たい雰囲気だったが、相手の選手が入場すると応援する声が大きくなった。それは仕方のないことだ。当時は少し頭にきたが、開始のゴングがカーンと鳴れば観衆もよく見えないし、今回も試合に集中するだけだ。

――実際、韓国内のファンの一部でも、今回の試合ではKIDが勝つと言う人もいる。それについてはどう思うか? 
ジェヒ よくわからない。ネットを見ていると、自分が負けそうな気になる。それから「冥福を祈る」という書き込みも見た。だがそれほど気にはしていない。自分は常に挑戦者の立場にいる。常に挑戦しようとしているが、自分のほうが有利だとは思わない。今回の試合は絶対につまらないものにしたくない。おそらく倒れているのはKIDのほうだろう。前にも言ったが、今回の試合はチャンスでもあり、危機でもある。俺はこのチャンスをモノにしなければならない。試合で日本に二度行ったが、一度目は5ラウンドのあいだずっとキックを食らって車椅子に乗って帰国した。二回目の試合では5ラウンドで判定負けをしたあと血尿が出た。日本での試合はダウンを奪えなければ勝てないので序盤から強く前に出なければならない。当時の試合でも身体が限界に至ったが、我慢したら心臓がバクバクしたのを感じた。これまで日本ではよくない思い出が多いが、今回はいい結果が出ることを願っている。

――今回の試合は別にして、闘いたい選手はいるか? 
ジェヒ 本当に尊敬している選手だが、パク・ビョンギュ館長(日本では朴龍のリングネーム)、そして日本の石井宏樹と闘ってみたい。2人とも個人的に好きな選手だ。もちろん、いまは自分の実力が彼らのレベルにまでは到達していないことは知っているが、チャンスがくればまたタイに飛んで練習を積んで闘いたい。最近、自分の名前を出してくれたキム・ドンヒョン(UFCファイターとは同名異人。現在は『武神』で活躍中)ともチャンスがあればムエタイの恐ろしさを見せてやりたい。過去に自分に勝ったことのあるチョン・ビョンとも闘いたい。あの試合が終わってから彼に勝つために一生懸命練習した。

――最後に、あなたが負けると言っている人々に一言あればどうぞ。
ジェヒ 多くの人々が俺が負けると考えているのは自分も知っている。彼らが願うこと、そして日本人が何を望んでいるか、よく知っている。俺はその多くの人に堂々と反抗するだろう。妥協はしない。このチャンスを掴むために5年もトレーニングしてきたんだ。自分のすべてをこの試合に注ぎこむ。この試合は立ち技の試合であり、自分のプライドがかかっているので絶対に負けることはできない。決してつまらない試合はしない。

※※※※※引用終わり※※※※※※

印象として、キックボクシングをするうえで決して環境がいいとは言えない韓国にあって、チョン・ジェヒは強くなるため、成功するために、わずかな可能性にかけて地道に本場のタイでムエタイに取り組み続けた男だった。自分の置かれた立場をよくわかっていて、驕りも怖気づいてもいなかった様子。タイからコーチを呼んでトレーニングしたKIDとは違って、1年間タイで技術を磨いてきたハングリーさが実を結んだ結果となったようだ。

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『RYOのイカサマ師日記1』

kamipro.comの『韓流MMAニュース』でも書きましたが、メールでリクエストもあったので、『DEEP 42 IMPACT』でベルナール・アッカに勝利したRYOの『MFIGHT』でのコラムを紹介したいと思います。コラムの内容は本人の半生を振り返る内容になっていますが、それ以外にもZERO1のエース格に成長した弟・崔領二とのこと、同じ在日韓国人である秋山成勲に対しての思いなど、興味深い部分もあります。

※※※※※※以下『MFIGHT』から引用※※※※※※

『RYOのイカサマ師日記1』“韓国と日本? それでもオレはオレ”

オレの名前はチェ・ヨン(日本でのリングネームはRYO)だ。日本の名前は崔領(さい・りょう)。日本で生まれ、日本で育った。いわゆる在日韓国人3世、“ザイニチ”だ。韓国の慶北霊泉出身の祖父が日本の九州大分に渡り、我家の日本生活は始まった。

知っている人はわかるだろうが、オレの職業は総合格闘技家である。時々バイトで土方をしたりもするが、それはあくまでも副業であって、自分の生活で最も重要な職業は格闘家である。2006年まで韓国のスピリットMCで活動し、2007年からは日本に帰って選手生活を続けている。

何日かのあいだに、この許されたこの空間を通して、在日韓国人として自分の思いや自分の生い立ち、そして韓国と日本について話してみようと思う。この文がおもしろく読める読者は奇人中の奇人だろう。

オレは1978年、日本の大阪で生まれた。下には弟と妹が一人ずついる。弟はあの有名な! プロレスラーの崔領二だ。もちろん知らない人も多いだろうが、日本では少し有名な人物だ。

日本に住む同胞は、大きく民団(在日本大韓民国民団)系列と朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)系列に分かれている。もちろんこの区分に大きな意味があるのではない。皆さんがよく知っている在日同胞の格闘家、朴光哲や金泰泳は朝鮮総連系列の学校を卒業した。

だが、オレは日本の学校で日本の教育を受けて育った。100%純粋なオリジナルの韓国の血が流れるオレが、日本の学校で日本式の教育を受けて育った理由は「祖国を捨てて日本人になるため」ではなく、単に「学校が家から近いから」だった。

オレが通っていた学校には一学年に在日同胞が二、三人はいた。もちろん多くの日本人の中にあって自分が在日であることを隠したがる場合もあるが、韓国名を日本式に変えて生活をしても、その臭いはどこかに出る。金本、国本、金山といった姓はほとんど在日同胞のそれだった。

オレの場合「高山領」という日本名を使っていた。だが、ある時から“崔領”という名前に変えた。崔領はオレの韓国名、チェ・ヨンをそのまま日本語で読んだものだ。

名前を変えた理由は父によるものだった。父は時々おかしな(?)本を読んでいたが、その影響を受けやすい。その日も一人で本を読んでいて、突然オレを呼ぶと「領は今日から韓国人の誇りを持たなければならない」と言って、大真面目に「おまえはこれから高山ではなく“崔領”だ」と言ってオレの名前を変えた。

その言葉を聞いた時、オレはとくに悩むこともなく、そのまま「はい」と答えてしまった。日本の学校で日本の教育を受けていたが、当時のオレは「オレはオレ」と思うだけで、毎朝太極旗(韓国国旗)を眺めて涙を流したりすることなどなかった。いまでもそれは同じだが、当時のオレは“祖国”や“民族”、“在日”という言葉より、“女子生徒”や“友人”という言葉のほうにもっと興味があった時期だった。

多くの人は、やはりオレがいじめられたと思うかもしれない。もちろん酷い時にはそういうケースもあるが、オレはそうではなかった。日本の友だちとよく一緒になって勉強したり、遊んだりした。

もちろん、多くの在日韓国人の子どもたちは日本人の中にいると多少萎縮する傾向もあるが、オレは自分をカッコいいと思った。なぜか? だってオレは彼らとは違うから。担任の先生も差別や人権について勉強された方で、クラスの友だちに「領を差別したら承知しないぞ」と言ってくれた。そして「差別はバカなことだ」と強調した。

もちろん、若干のいたずら混じりの冷やかしはあった。オレの名前である崔は日本語ではサイを意味する。それで何人かの子はオレの鼻を指さして、「おまえにはどうして角がない?」とからかったりもした。これがギャグコンサート(韓国の人気番組)なら、たった一週間でクビになるレベルの冗談で、結局これはただの冗談で終わった。そんないたずらのために、オレが友人とケンカすることはなかった。当時、オレはかなり外向的な子だった。いまでも自分はバカだが、その時もバカに近かった。いまよりもう少しおしゃべりでうるさいバカだった。

当時、我家は大阪で商売がうまくいく焼き肉屋を経営していた。商売人の家でオレと弟たちは、みな平凡に育った。在日韓国人・朝鮮人が出てくる映画のように「民族の自尊心」のために同級生とケンカをしたり、アイデンティティの混乱を経て「親父! オレはなんで韓国人なんかに生まれたんだ」と反抗することは絶対になかった。

オレは本能的に強い人に弱く、弱い人に強いので、ケンカはほとんどせずに育った。もちろん高校の時、ケンカが強ければ女子生徒にもてる場合もあった。オレも一時は「どうしたらもてるのか?」と悩み、ジェルを塗ったり香水をつけてみたが、効果はほとんどなかった。

※※※※※※※

『RYOのイカサマ師日記2』 

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『RYOのイカサマ師日記2』

RYOの半生を綴った手記、第二編です。

※※※※※※
以下『MFIGHT』から引用※※※※※※

『RYOのイカサマ師日記2』“バスケットボールと柔道、秋山成勲とオレの違い”

2007年10月、韓国で『HERO’S』が開催された。その時オレはオープニングファイトに出場して外岡真徳という正道会館の選手と闘った。(後日、この選手は秋山成勲とも試合をして負ける)。そしてこの大会メインイベントは秋山成勲とデニス・カーンの試合だった。

オレは1ラウンドの序盤、KOで外岡選手に勝った。気持ちのいい勝利だった。そして秋山もデニス・カーンを1ラウンドでKOした。この日、たくさんの試合が行なわれたが、話題の中心は断然、秋山成勲であった。

試合後、知人がやってきて「おまえも秋山と同じ大阪出身の在日韓国人なのに、なんでこんなに影響力が違うんだ?」と言ったかと思えば、別の知人は「それは高校の時、向こうは柔道をしてて、おまえはバスケットボールをしてたからだろ?」と言った。

そう、秋山が柔道をしている頃、オレはバスケットボールをしていた。“民族”や“大韓民国”、“在日韓国人・朝鮮”といった言葉に、これと言って関心のなかったオレは高校2年の時からバスケットボールを始めた。ポジションはセンターでレギュラーだった。時々「ダンクシュートできる?」と聞く人がいるので、この場で明かすがダンクシュートはもちろんできる。もっともバスケットボールの球ではなく、テニスボールでの話だが……。

自分の高校が県内で3位に入れば全国大会に出ることができた。だが、オレたちの学校は地区予選ベスト8で3点差で負けて全国大会出場は叶わなかった。全国大会出場の夢が潰えた日、漫画『スラムダンク』の連載も終わった。自分より背が低い相手に、二回連続で蝿叩きブロックに遭ったような悲しい日だった。

高校卒業後、バスケットボールを続けるつもりもあったが、結局バスケットで大学進学はできなかった。オレの通っていた学校が全国大会に出られなかった影響もあったし、バスケットで大学に行くなら入試にも受からなければならなかったが、点数も足りなかった。オレは勉強ができなかったのでなく、しなかったのだ。それはある種の“拒絶反応”のようなものだった。

高校を卒業した後、周りの誰かが「韓国に行ってみたらどうか?」と言った。オレは深く考えることもなく「語学研修にでも行くか」という感じで韓国行きの飛行機に乗った。そしてやはり、深く考えることもなく韓国語を勉強するために語学堂に通い、深く考えることもなく、韓国の大学に進学しようと思った。

オレは語学堂に通って韓国外国語大学の日本語科に入学した。とくにしたいこともなかったが、「同時通訳者は金になる」という話を聞いて入学したのだった。だが当時のオレの韓国語の能力は、それこそどん底だった。語学堂で日本から来た友人と一緒に遊んでいたので、韓国語はうまくならなかった。むしろ韓国にきてもっと日本語がうまくなったような感じだった。

このあと、何度となく玄海灘を行き来しながら紆余曲折を経て、6年もかかって大学を卒業した。勉強するのに忙しいはずなのに、何度も玄海灘を渡った理由は、単にお金がなくなったからだった。そういう時は、日本に帰って土方のバイトをして金を稼ぎ、また韓国に戻ってくる、ということを繰り返した。

■格闘技を始める

多くの選手は女にもてようとして格闘技を始めるケースが多いというが、オレはそれに該当しなかった。23歳になった時、弟に“総合格闘技”というものを紹介されたのだ。弟は「本当におもしろいスポーツだぞ」と言いながら、オレに「格闘技をやってみたらどうだ?」と言った。

ここで弟について説明をしておかなければならない。オレの弟は知っている人はわかるだろうが、日本ではファンからバイクをプレゼントされるほど、けっこう有名なプロレスラーの崔領二だ。

プロレスに入門した動機も突拍子もないものだった。幼い頃、領二がイギリスに留学に行って学校が休みの時、オランダに行き格闘技を習ったことがある。そのジムの主が『UFC1』に出場したジェラルド・ゴルドーだった。そこで格闘技を習った弟はジェラルド・ゴルドーが日本でプロレスの試合をするので、セコンドとして一緒に付いて行った。事件はここで起こった。

弟の整った顔立ちと長身が当時のプロレス団体の関係者の目に止まったのだ。ある関係者は弟に「プロレスをやってみるつもりはないか?」と尋ねたが、このとき領二は「ない」とハッキリ断った。

その後、弟は再びセコンドとして日本に訪れたが、以前に断ったはずのプロレス関係者がまた近づいてきた。すでに断っていたので、その関係者は「プロレスはしなくてもいい。紹介したい人がいるから、ちょっと一緒に会ってみないか?」と言って彼を安心させた。それほど変な話でもなかったので、領二もとりあえずついて行った。

だが運命はここで変わってしまう。弟が会った人物とは、日本の伝説的なプロレスラーで、ZERO1の創立者・故橋本真也さんだった。橋本さんは弟を見てすぐに「君が今回入団することになった崔領二くんか? まあ、頑張ってね」と言ったのだ。こうして領二はいつの間にかプロレスを始めることになった。

一方、オレはオレで韓国でキックボクサーとして活動していたリ・ヨンチョル(※訳者注:長谷川永哲。格闘技通信でも韓国格闘技コラムを執筆していた。ハイパー・キック・リーのリングネームも使う)さんと語学堂で出会い、格闘技というものを本格的に始めていた。この時、韓国には総合格闘技という概念すらなく、K-1も有名ではなかった。オレは日本でも格闘技ジムに入会し、3ヵ月練習しただけでアマチュア修斗の大会に出場した。運よく西日本トーナメントの新人戦で優勝することができた。当時の階級はライトヘビー級だった。しかし、まだプロでやるつもりはなかった。

「優勝したんだから才能はあるのかな?」と思いはしたが、最終的に自分に才能はないという結論を下し、ただひたすら練習をした。だが打撃の練習はまったくやらなかった。誰かの顔を殴ったり、殴られたりするのがきらいだったし、関心もなかった。

それからまた日本でアルバイトをして過ごしていた時、日本の格闘技雑誌に紹介されたスピリットMCの記事を見つけた。イ・ミョンジュという選手が第1回大会で優勝をする姿を見た。彼のヘアースタイルを見て「こんなファッションの選手が韓国ではスターになれるの?」と思った。オレも決して外見はよくないが、韓国でならスターになれるんじゃないかと思った。

オレはまた飛行機に乗って韓国に戻っていた。
 
※※※※※※※

『RYOのイカサマ師日記3』

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『RYOのイカサマ師日記3』

※※※※※※以下『MFIGHT』から引用※※※※※※

『RYOのイカサマ師日記3』“オレの勝負論、相手の長所を殺せ”

韓国で出場した2004年の『スピリットMCインターリーグ』でキム・ドンヒョン(現UFCファイター)、木村仁要、キム・チュンヒョンに勝利して優勝した。こうしてオレの韓国での格闘家活動は始まった。

韓国に来てからスピリットMCでたくさんの試合をした。『GO! スーパーコリアン』(スピリットMCのリアリティショー)に出演して若干の人気も得た。当時、オレは自分がチャンピオンにならないとダメだという考えにとらわれていた。おかしな話だが、オレが優勝しないと韓国の総合格闘技は発展できないと考えていたのだ。

当時は大きな目標よりも、いかにすればよりおもしろい試合ができるかが重要だと思っていた。にもかかわらず、戦略は自分が相手の長所を殺すことだった。勝負論的に見れば、これは正しいことだが、いま考えると極めてアマチュアの考え方だ。プロなら観衆の視線を意識し、おもしろい試合をしなければならないのは当然のことなのに。

だが、2005年ミドル級の決勝トーナメントでイム・ジェソクのパンチを食らって初の失神KO負けを喫した。それまでのオレの打撃はゴミのようなものだったが、それでも一度もKOで負けたことはなかった。この試合以後、オレはトータルファイターになる必要性を感じ、打撃を本格的にトレーニングするようになる。このときの結果は負けだったが、韓国総合格闘技の発展には少なからず貢献できたと思う。

それから真剣に打撃のトレーニングに打ち込み、2006年4月22日のマイク・アイナとの試合では成長した自分の姿を見せることができた。いま考えればやはり物足りなくはあるが、以前のゴミのようなレベルの打撃をある程度克服した姿を見せられた。そしてその年の10月、アメリカン・トップチームのスティーブ・ブルーノと対戦し、3ラウンド出血によるTKO負けを喫した。これがスピリットMCでの自分の最後の試合となった。

2007年を前にして非常に悩んだ。韓国にずっといるべきなのか、それとも日本に行くべきなのか。結局、オレは韓国を後にして日本に帰ることにした。韓国のファンにはかなり失望したし、韓国にはもうこれ以上の希望はないと思ったからだ。韓国の格闘技ファンは選手を批判するばかりで、インターネット上ではキーボードウォリアーたちが猛威をふるっていた。いまでも思うが、そういう一部の人間はこの世に必要のない存在だ。

当時のことで思い出すのは『GO! スーパーコリアン』の撮影をしていた時のことだ。オレは番組に命をかけて出演した。「ちょっとオーバーかな」と思いもしたが、さまざまな人が協力してくれて最終的には観る価値のある映像になったと思う。アイデアについては本当に一生懸命考えた。

あの番組について「全部、あらめかじめ筋書きがあったんだろ?」と議論されることがあるが、若干の演出はあったものの、事前に緻密な脚本があって、そのとおり動いていたわけではない。“やらせ”を演じていたのではなかった。

だが問題はあった。こちらがそこまでアイデアを出して出演しているのに、ファンからは非難され、自分としては最善をつくしたが、×××というプロダクションの社長がテレビ会社との間でギャラを“中抜き”したため、もらうべきはずの出演料の残り200万ウォン(当時で約30万円程度)を手にすることができなかった。もしこの男が生きているなら、いつかオレと出会ったときには、この世を去る覚悟をしなければならないだろう。200万ウォンというお金はマジメに仕事をしていれば簡単に得られる額だが、オレはこの番組の撮影に対しても命がけで臨んでいた。そして、その代価は得られることはなかった。

最近、聞こえてくる消息の中で残念なのは、スピリットMCが大会を開いていないということだ。スピリットMCは数年間、ずっと韓国人を活躍させてくれる舞台だったが、このようになってしまったのはあまりにも残念なことだ。だが、物事を大きく見るならば、結局こうなったのもスピリットMC自身の責任だ。他人を恨むことはできない。

自分自身もスピリットMCで試合をさせてもらった人間だが、彼らにはなんの不満もなかった。主催者の立場でオレにできる限りのことをしてくれたことにいまでも感謝している。だが、重要なのは後輩の韓国人選手たちの闘う舞台がなくなったということだ。


■『HERO’S』での2連勝
そして「韓国のバカども、おまえらを後悔させてやる」というバカな言葉を残して、オレは日本に戻った。いまでも同じ考えだが、韓国は韓国自身を無視している。海外に出て成功した人間しか認めないのだ。そんな中でオレも結局はチャンスの多い日本を選ぶしかなかった。

2007年の初め、日本での試合が中止になったオレのもとに非常に貴重なチャンスが到来した。日本で開催されていた『HERO’S』のオープニングファイトに出場することになったのだ。このとき、オレは“ウェスト・ジャパン”というふざけた所属名でRYOという名前で大会に出場した。

蒸し暑い7月、記者会見が開かれた日本のホテル。自分の生まれ育ったのは日本だが、このときオレはあまりにも孤独だった。しかし、どこからかヒソヒソと韓国語が聞こえてくるではないか。オレの名を呼ぶ声のほうを振り向くと、そこには『MFIGHT』の記者たちがいた。子どもの頃、外泊するとお母さんが懐かしくなるというが、そのときオレは心細い中で母に会ったような気がした。

オレの試合はオープニングファイトの第2試合だった。会場は横浜アリーナだった。あのときほど緊張したことはなかった。「相手が入場のときに倒れて欠場してくれたらいいのに」とまで考えた。“超ウルトラスーパーマックス”の緊張度だった。結局は落ち着いて闘って勝つことができた。実際は自分がうまく闘ったというより、相手が自爆してくれたようなものだった。

そしてその年の10月。待ちに待った韓国で、約1年ぶりに試合をした。場所はオレのホームグラウンドである奨忠(チャンチュン)体育館だった。この時も、オープニングファイトではあったが、かなり興奮した。セコンドについてくれた真武館空手韓国支部のイ・ヨンギュ館長はオレの何倍も興奮していた。

結果はオレの1ラウンドKO勝利だった。総合格闘技を始めて以来、初のKO勝利だった。打撃のトレーニングに力を入れたことに対する初めての成果だった。試合後、それまでオレをずっと無視してきた前田日明さんも話しかけてくれて「RYO君、キミなら本戦でも充分に通用するよ」と言ってくれた。

そして同じ日に、秋山成勲がデニス・カーンをKOさせたあと、マイクを取って「我々の大韓民国最高!」という言葉を放った。奨忠体育館の歓声は弾けんばかりとなった。だが、会場にいたオレはめまいがした。その言葉を聞いた瞬間、「これは違うだろう……」という思いが頭をよぎった。奨忠体育館は何か集団催眠にでもかかったようだった。
 
※※※※※※※

『RYOのイカサマ師日記4』

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『RYOのイカサマ師日記4』

※※※※※※以下『MFIGHT』から引用※※※※※※

『RYOのイカサマ師日記4』“秋山成勲をまともに理解できない韓国”

2007年10月、『HERO’S』韓国大会、秋山成勲がデニス・カーンを破ったあと、当時の会場の雰囲気は異常なものだった。まるで秋山成勲による、秋山成勲のためのお祭りだった。すべての観客は大韓民国の孝行息子・秋山成勲の名を連呼していた。

その瞬間、オレは寒気がした。自分も韓国人だが、韓国人は本当に単純なバカだと思った。実際にオレも単純でマヌケではあるが、そんなバカのオレでも異常な雰囲気を感じとったことが何より恐ろしかった。秋山成勲の「我々の大韓民国最高!」という言葉に、観客すべてが魅了されているようだった。あたかも第2次世界大戦のとき、何かに導かれた全体主義のように。

もちろんだからと言ってオレが韓国を嫌っているのではない。韓国を愛しているとは言えないが、好きではある。そんな韓国に対する愛情があるから、非難されたとしても批判はできると考えている。韓国が嫌いなら、あえて一年に何度も韓国を行ったり来たりすることはない。

同じ大阪の在日韓国人であった秋山成勲については言っておきたいことがある。彼には日本名の“秋山成勲”という名前があるが、韓国人はあえて“チュ・ソンフン”という名前を使用する。秋山もやはり日本では“秋山成勲”、韓国では“チュ・ソンフン”という名前を使っている。そうした雰囲気を好むマスコミのせいである。

オレも同じだが、たとえ韓国人の血が流れていたとしても、実際は日本で生まれ育っているので、ある程度は日本特有の考え方が身についている。秋山の場合も同じである。韓国人にしては日本人特有の緻密さがあり、日本人にしては韓国人特有のキツい側面を持つ。これは批判ではない。そうした事実があることを認めているのだ。

最近、秋山成勲の『ふたつの魂 HEEL or HERO』という自伝を見た。経済的に余裕のあるほうではないので、買わずに書店で少し読んだだけだが、読んでみて感じたのは「やはり秋山は緻密だ。心の奥深くの本音ははるか遠くに隠されている」ということだった。

自分も格闘技に命をかけている一人のプロファイターとして、秋山成勲という人物は本当に凄いと思う。彼のように緻密に自己管理に徹する部分については、認めているし学びたいとも思う。しかし、その以前に選手 vs 選手として、いつかは秋山成勲と闘って勝ちたいと思う。そして勝ったあとには「RYOがどうやったら秋山に勝てるんだ?」と言うファンに目にものを食らわせたい。

そして、老いぼれた70歳のジジイになって屋台で焼酎を傾けながら「オレはなぁ、昔、あの秋山成勲に勝ったんだぞ……」と管を巻くのがオレの夢だ。もちろん、秋山成勲は格闘技界では自分の先輩なので、実際に会えば尊敬語を使って「先輩!」と言うかもしれないが。

ここで言っておきたいのは、韓国人は秋山成勲という人物を客観的に見ることができないでいるということだ。秋山成勲は格闘家として、内面的にも外面的にもちゃんと認めなければならない部分はある。彼の自己管理能力や努力は、見習うべき点がある。同じ在日韓国人としても共感する部分もあり、「これは違うだろう」と考える部分もある。だがいつかは彼と闘わなければならない。だが自分にとってもっと大事なのは秋山成勲と闘って勝つ前に、オレに生涯初のKO負けを味あわせたイム・ジェソクにリベンジをしなければならないということだ。

韓国の格闘技ファンにも言っておきたいことがある。実現できないことかもしれないが、一応は言っておく。韓国には純粋にスポーツ自体を楽しむ人もいるが、ナショナリズムのためにスポーツを観ている人も多い。国内サッカーの競技場に来て応援する人と、韓国代表の国際戦に来る観客数を見てもそれはわかるだろう。

すべてを発展させるためにはナショナリズムを抜きにして、純粋にスポーツそのものを好きになってほしい。まずは韓国内のスポーツを活性化させて、その上にはじめてナショナリズムがあるべきではないか。もちろん組織も努力しなければならないのは同じで、一般人の思考水準も重要だ。そんな認識が早く変化してスポーツをスポーツとして楽しむことがこの国には必要だと思う。
 
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『RYOのイカサマ師日記5』

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