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『RYOのイカサマ師日記3』

※※※※※※以下『MFIGHT』から引用※※※※※※

『RYOのイカサマ師日記3』“オレの勝負論、相手の長所を殺せ”

韓国で出場した2004年の『スピリットMCインターリーグ』でキム・ドンヒョン(現UFCファイター)、木村仁要、キム・チュンヒョンに勝利して優勝した。こうしてオレの韓国での格闘家活動は始まった。

韓国に来てからスピリットMCでたくさんの試合をした。『GO! スーパーコリアン』(スピリットMCのリアリティショー)に出演して若干の人気も得た。当時、オレは自分がチャンピオンにならないとダメだという考えにとらわれていた。おかしな話だが、オレが優勝しないと韓国の総合格闘技は発展できないと考えていたのだ。

当時は大きな目標よりも、いかにすればよりおもしろい試合ができるかが重要だと思っていた。にもかかわらず、戦略は自分が相手の長所を殺すことだった。勝負論的に見れば、これは正しいことだが、いま考えると極めてアマチュアの考え方だ。プロなら観衆の視線を意識し、おもしろい試合をしなければならないのは当然のことなのに。

だが、2005年ミドル級の決勝トーナメントでイム・ジェソクのパンチを食らって初の失神KO負けを喫した。それまでのオレの打撃はゴミのようなものだったが、それでも一度もKOで負けたことはなかった。この試合以後、オレはトータルファイターになる必要性を感じ、打撃を本格的にトレーニングするようになる。このときの結果は負けだったが、韓国総合格闘技の発展には少なからず貢献できたと思う。

それから真剣に打撃のトレーニングに打ち込み、2006年4月22日のマイク・アイナとの試合では成長した自分の姿を見せることができた。いま考えればやはり物足りなくはあるが、以前のゴミのようなレベルの打撃をある程度克服した姿を見せられた。そしてその年の10月、アメリカン・トップチームのスティーブ・ブルーノと対戦し、3ラウンド出血によるTKO負けを喫した。これがスピリットMCでの自分の最後の試合となった。

2007年を前にして非常に悩んだ。韓国にずっといるべきなのか、それとも日本に行くべきなのか。結局、オレは韓国を後にして日本に帰ることにした。韓国のファンにはかなり失望したし、韓国にはもうこれ以上の希望はないと思ったからだ。韓国の格闘技ファンは選手を批判するばかりで、インターネット上ではキーボードウォリアーたちが猛威をふるっていた。いまでも思うが、そういう一部の人間はこの世に必要のない存在だ。

当時のことで思い出すのは『GO! スーパーコリアン』の撮影をしていた時のことだ。オレは番組に命をかけて出演した。「ちょっとオーバーかな」と思いもしたが、さまざまな人が協力してくれて最終的には観る価値のある映像になったと思う。アイデアについては本当に一生懸命考えた。

あの番組について「全部、あらめかじめ筋書きがあったんだろ?」と議論されることがあるが、若干の演出はあったものの、事前に緻密な脚本があって、そのとおり動いていたわけではない。“やらせ”を演じていたのではなかった。

だが問題はあった。こちらがそこまでアイデアを出して出演しているのに、ファンからは非難され、自分としては最善をつくしたが、×××というプロダクションの社長がテレビ会社との間でギャラを“中抜き”したため、もらうべきはずの出演料の残り200万ウォン(当時で約30万円程度)を手にすることができなかった。もしこの男が生きているなら、いつかオレと出会ったときには、この世を去る覚悟をしなければならないだろう。200万ウォンというお金はマジメに仕事をしていれば簡単に得られる額だが、オレはこの番組の撮影に対しても命がけで臨んでいた。そして、その代価は得られることはなかった。

最近、聞こえてくる消息の中で残念なのは、スピリットMCが大会を開いていないということだ。スピリットMCは数年間、ずっと韓国人を活躍させてくれる舞台だったが、このようになってしまったのはあまりにも残念なことだ。だが、物事を大きく見るならば、結局こうなったのもスピリットMC自身の責任だ。他人を恨むことはできない。

自分自身もスピリットMCで試合をさせてもらった人間だが、彼らにはなんの不満もなかった。主催者の立場でオレにできる限りのことをしてくれたことにいまでも感謝している。だが、重要なのは後輩の韓国人選手たちの闘う舞台がなくなったということだ。


■『HERO’S』での2連勝
そして「韓国のバカども、おまえらを後悔させてやる」というバカな言葉を残して、オレは日本に戻った。いまでも同じ考えだが、韓国は韓国自身を無視している。海外に出て成功した人間しか認めないのだ。そんな中でオレも結局はチャンスの多い日本を選ぶしかなかった。

2007年の初め、日本での試合が中止になったオレのもとに非常に貴重なチャンスが到来した。日本で開催されていた『HERO’S』のオープニングファイトに出場することになったのだ。このとき、オレは“ウェスト・ジャパン”というふざけた所属名でRYOという名前で大会に出場した。

蒸し暑い7月、記者会見が開かれた日本のホテル。自分の生まれ育ったのは日本だが、このときオレはあまりにも孤独だった。しかし、どこからかヒソヒソと韓国語が聞こえてくるではないか。オレの名を呼ぶ声のほうを振り向くと、そこには『MFIGHT』の記者たちがいた。子どもの頃、外泊するとお母さんが懐かしくなるというが、そのときオレは心細い中で母に会ったような気がした。

オレの試合はオープニングファイトの第2試合だった。会場は横浜アリーナだった。あのときほど緊張したことはなかった。「相手が入場のときに倒れて欠場してくれたらいいのに」とまで考えた。“超ウルトラスーパーマックス”の緊張度だった。結局は落ち着いて闘って勝つことができた。実際は自分がうまく闘ったというより、相手が自爆してくれたようなものだった。

そしてその年の10月。待ちに待った韓国で、約1年ぶりに試合をした。場所はオレのホームグラウンドである奨忠(チャンチュン)体育館だった。この時も、オープニングファイトではあったが、かなり興奮した。セコンドについてくれた真武館空手韓国支部のイ・ヨンギュ館長はオレの何倍も興奮していた。

結果はオレの1ラウンドKO勝利だった。総合格闘技を始めて以来、初のKO勝利だった。打撃のトレーニングに力を入れたことに対する初めての成果だった。試合後、それまでオレをずっと無視してきた前田日明さんも話しかけてくれて「RYO君、キミなら本戦でも充分に通用するよ」と言ってくれた。

そして同じ日に、秋山成勲がデニス・カーンをKOさせたあと、マイクを取って「我々の大韓民国最高!」という言葉を放った。奨忠体育館の歓声は弾けんばかりとなった。だが、会場にいたオレはめまいがした。その言葉を聞いた瞬間、「これは違うだろう……」という思いが頭をよぎった。奨忠体育館は何か集団催眠にでもかかったようだった。
 
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『RYOのイカサマ師日記4』

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