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イ・ワンピョが語る大木金太郎との思い出話

10月26日は、韓国の大木金太郎(キム・イル)の命日である。毎年、大木金太郎の後継者であるイ・ワンピョがこの日に大木金太郎の追悼記念興行を開催しているが、今年同じ日に三周忌記念興行を行なうようだ。

イ・ワンピョ(李王杓)――。日本では昨年11月、53歳にしてボブ・サップと試合をした人物として名前が知れているかもしれない。プロレスにおいては国際プロレスや全日本プロレスに参戦歴はあるものの、韓国においてはスーパー・ストロング・マシン2号の中の人であった力抜山に実績で引けを取るものの、晩年まで大木金太郎との関係を密にしていたことから、大木から直々に“後継者”に任命され、韓国のプロレス界の中心人物となった男である。

しかし、現在の韓国格闘技界&プロレス界におけるイ・ワンピョの評判はあまり芳しいものではない。それは“大木金太郎”の名前を使って、彼の死後も長々と商売していることや、昨年の“MMA”、あるいは“リアルファイト”と銘打っておきながらボブ・サップとれっきとしたプロレスマッチをぬけぬけとやり通したことなどが原因に挙げられる。もちろん団体関係者の追悼大会を行なうこと自体は悪いことではないが、彼の主宰する韓国プロレス連盟は年に2、3度しか大会を開催しないにもかかわらず、毎年大木金太郎の追悼興行なっているのだから「他人のふんどしで相撲を取る」といわれても仕方のない状況だ。最近では、自らの組織を堂々と「大韓総合格闘技協会」に改称し、その総裁を自称しているという。

そういった、現在・過去のイ・ワンピョの胡散臭さはここでは置くとして、今年の10月26日の大木金太郎三周忌興行に向けてメディアに登場し、大木金太郎との思い出話を話したりしている。現存する関係者の中で、晩年に至るまで大木金太郎と密接な関係を築き続けてきた人物の筆頭がイ・ワンピョであることは間違いなく、師匠に対する孝の部分は評価されてしかるべきでる。

韓国でもそうした視点から、最近『スポーツ朝鮮』がイ・ワンピョに取材し、生前の大木金太郎との思い出話を長文にわたって掲載している。当時のイ・ワンピョの視点を通したものではあるが、韓国における大木金太郎の姿を知る上で興味深い情報なので、以下に紹介する。韓国人が大木金太郎を語る場合は「キム・イル」の名称を使用するので、翻訳の際にはそのまま「キム・イル」と訳した。


※※※※※以下、『スポーツ朝鮮』から翻訳転載※※※※※

09年9月28日付『スポーツ朝鮮』紙掲載記事「忘れられない瞬間、イ・ワンピョが語る“大木金太郎”との思い出」より

“頭突き王”キム・イル(大木金太郎)の後継者、イ・ワンピョ大韓総合格闘技協会総裁は近頃忙しい。故キム・イル先生の3周忌追悼興行の準備のためである。10月26日、オリンピック第2競技場にて、“キム・イル記念館”建設の広報も兼ねて大会を開催する。いつの間にか韓国プロレスの象徴となっていた彼は、生涯キム・イルとともにいた。師匠が世を去る頃には彼の手足となって生き、彼の人生はいつもキム・イルで満たされていた。最近でも口さえ開けば「大木金太郎先生」のことが出てくる。

■英雄キム・イルとの出会い
「1975年だから19歳の時です。キム・イル体育館でプロレスラーの第1期生を募集するという報を耳にしました。当時のキム・イルは、パク・チョンヒ(朴正煕)大統領に寵愛された国民的英雄でした。先生の顔を見るだけでも光栄な時代でした。幼い頃からテレビでキム・イル先生を見て、あんな英雄になりたいと決心していたので、テストを受けるのもためらいませんでした。自分は身体も大きい方だったし、何より熱い血がたぎっていた年頃でもありました。テストを受けに来た人は100人以上いて、韓国中の力自慢が集まっていました。ただ、資格条件は身長180cm以上、体重80kg以上だったので、自分は少し足りませんでした。身長は187cmでしたが、体重が少し足りなかったのです。けれどもダメもとでテストを受けました。プッシュアップ50回、ブリッジ30回、スクワット300回……。英雄が見守る中、全員が全力を出しました。受かるとは思いもしませんでした。私は条件を満たしていませんでしたから。けれども直にキム・イル先生を見れたので受からなくても悔いはありませんでした。ところが、後になって合格通知が届いたんです。信じられませんでした。自分がキム・イル先生の弟子になれるなんて……。月日が経ってから先生に聞いたことがあります。『私より力が強くて身体も大きい人も多かったのに、どうして体重の足りない自分を選んだんですか?』と。師匠の答えは『目が生きていたからさ』とシンプルに答えました。この時の合格者は4人でした」

■幸福の終わり、苦労の始まり
「ですが、世界のすべてを手にしたような気持ちは一日しか続きませんでした。翌日、光化門(クァンファムン)文化体育館に行きました。希望に満たされていた私の胸は、体育館のドアを開けた瞬間に音を立てて崩れ落ちました。そこには15人の大男が仁王立ちしていて、まず『スクワット1000回』と命令されました。100回もすれば足がガクガクになるスクワットを休まず1000回しろというのです。死ぬ気でなければ発作を起こしていたでしょう。何百回かしたところで、ふくらはぎと太ももがガチガチに固まって言うことを聞かなくなりました。私は『これは新入りイジメに違いない』と思いました。しかし、“死のスクワット1000回”が毎日の準備運動に過ぎないことを知ったのは、翌日のことでした。スパーリングはさらに過酷でした。15人の先輩が順々にリングに上がり、10分ずつ私をグチャグチャにして降りて行くんです。どんな技をかけてもビクともしない先輩と150分間ずっと取っ組み合いをすることを考えてみて下さい。まったく手加減はされませんでした。そしてこのスパーリングには“まいった”は許されませんでした。死んでも150分をやりきらないと終わらないのです。もちろん、少し行き過ぎた場面があれば、見守っていた先生が止める時もありましたが。ただ、ありったけの力を絞り出して練習についていくと、少しずつ技術が身についてきて、2年で身長も190cm、体重も100kgを超えるようになっていました」

■月尾島での焼酎パーティ
「キム・イル先生の門下生になって1年ほど経った頃、道場生全員が仁川(インチョン)の月尾島(ウォルミド)に集まっての宴会がありました。土砂降りの雨の中、海辺の刺身屋に着いたのが午前11時。そこから焼酎を飲み始めました。先輩は少しずつ飲んでいましたが、新入りはグラスで飲まなければなりませんでした。キム・イル先生もよく焼酎を飲んでいましたよ。最初は一緒に飲んでいましたが、後には席を外すことが多くなりました。お酒はやめたんでしょうね。12時が過ぎると、一人、二人と倒れていき、3時になると起きている者は三人しかいませんでした。結局、焼酎は自分一人で26本も飲んでいました。無我夢中でしたよ。4時頃なって先生が『出るぞ』と言って、みんなでタクシーに乗ってソウルへ向かいました。ところが、タクシー中で揉め事が起きました。突然場所を変えたことで、自分の酔いが回ったのが原因でした。前の席に座っていた先輩が、後ろを向いて『ワンピョ、大丈夫か』と聞いてきました。『はい』と言えば済んだのに、今でもなぜそうしたかわかりませんが、振り返った先輩の顔を平手で強く叩きながら「気にすんな、ボケ」と言ってしまったんです。当時、先輩のレスラーほど怖い存在はなく、当時は自分が喫茶店でお茶を飲んでいても、先輩が姿を見せれば倉庫の中に隠れたほどでした。酔って頭がおかしくなっていたんでしょうね(笑)。ソウルまでどうやって帰ってきたのか、今でもサッパリ思い出せません翌日も午前6時から練習が始まりました。すると前述の先輩が前に出てきて、大声で叫びました。『イ・ワンピョ、前に出ろ!』。そして緊張する私に『スクワット3000回!』と叫ぶのです。周囲には野球バットを持った先輩たちが取り囲んでいました。スクワット3000回こなすのに3時間かかりました。何日間かは足が使えませんでした」

■師匠をだます
「ある日、先生が私を呼んで『ワンピョ、運転免許証はあるか?』と聞くのです。『ありません』と答えると、30万ウォンをポンと渡して『取ってこい』とおっしゃいました。当時の30万ウォンは、もの凄い大金でした。雲の上の存在である先生からもらったお金ですから、すぐに自動車学校に行くべきでした。ところがなぜか同期たちを呼び集めて、私はどんちゃん騒ぎをし、お酒や肉代として使い果たしてしまいました。それから二ヵ月ぐらい過ぎた頃、先生が『取ったか』と尋ねるんですよ。ビックリしてうっかり『取りました』と言ってしまいました。すると『仁川に行くぞ』と言うんです。どうする事も出来ず、無免許なのに冷や汗と涙をボロボロ流しながら行きましたよ。下手なりに運転の仕方は知っていましたが、乗せているのが大切な先生なのでビクビクしましたよ。一歩間違えば国民的英雄をあの世の中に送る事件を起こすハメになるんですから。それで仁川から帰ってきたらすぐに自動車学校に通い始めました(笑)。先生は後でその無免許運転のことを知ったようですが、表情には出しませんでした」

■天下のキム・イルも呆れた?
「釜山の海雲台(ヘウンデ)で11人が合宿をしている時でした。地元の有志が訪ねてきて『キム・イル先生を招待したい』と言って焼肉屋で食事をすることになりました。“海雲台カルビ”は他の地域のカルビと違って手のひらぐらいの大きさでした。11人のレスラーが一斉にカルビにかぶりつく様はなかなか見ものでしたよ。自分も我を忘れて食べました。ちょうどお腹も空いていたところでしたし。骨が山積みになるほどになって、先生が咳払いをして『お前たち、少し考えて食べなさい』と言いました。いくらプロレスラーであってもむやみやたらに食いすぎるのが気に入らなかったようです。その時カルビは合計で450本以上も食べました。宿舎に帰っても食事が用意されていたので、先生が『これも食っとけ』と言うので、もちろんみんなで平らげました。当時、キム・イル軍団に食事をおごると豪語した人は、みな酷い目に遭いました。いつもレスラーは一人で肉を20人前は食べますからね」

■先生は……
「先生はいつも忍耐の“忍”を強調しました。サインもいつも“忍”の字を書きました。忍耐できない者はレスラーになれないということでしょう。先生はリングでは鬼でしたが、リング外では非常に慈しみ深い方で、いつも弟子たちを暖かく見守ってくれました。おしゃれにも気を使う人で、色を合わせていつも服を着るなど、いつも清楚な身なりをしていました。後輩に対するしつけもしっかりしていて、いつも『礼儀正しく行動するように』と言っていました。歳下の人に対してもむげにはしません。いつ頃からか、私に対しても「イ館長、このようにして下さい」と言うので、「先生、そんなに丁寧に言わなくても……」と言いましたが、頷かず亡くなる時まで私に敬語を使いました。
ファイターとしての先生については、説明する必要もないでしょう。韓国でよりも、日本でのほうが人気がありました。怪力で有名で、先生のヘッドロックをかけられると、アゴの骨が砕けそうでした。70年代の末に『高弟』という映画の撮影がありましたが、先生に頭突きを食らって倒れる役者がいましたが、実際に先生の頭突きを受けて、本当に死にそうになる事件もありました。先生が頭突きをまともにやってしまったので、その役者は深刻な痛みで一週間も起きることができませんでした。先生は体格も良かったですし、スポーツは何をやらせてもが上手でした。ですから女性からの人気も凄いものでした。日本に行けば会場やホテル周辺に女子高生たちが置いて行った花束や贈り物が山ほどありましたし、試合の最中には先生の名前を連呼する人が大勢いました」

■朴正煕元大統領との絆
「これは後に聞いた話ですが、60年代の後半のことです。ある日、パク・チョンヒ(朴正煕)元大統領のパク・ジョンギュ秘書室長が訪ねてきました。そして先生を車に乗せて、漢江(ハンガン)から現在の狎鴎亭洞(アックジョンドン)の方を指さして『近いうちにあの辺に橋を造るから、向い側に土地を買っておきなさい』と耳打ちをしたそうです。先生は『5万坪買うお金はあるが、10万坪買いたいから日本行ってもう少し稼いでくる』と言いました。ところが、その年の夏に深刻な日照りで韓国中が大騷ぎになると、先生は持っていたお金をポンとはたいて、揚水機300台を買って政府に寄贈されました。パク大統領が先生を愛する理由が分かりましたよ。
晩年は、ソウルの病院で長く過ごしましたが、訪ねて行くたびに病院の裏の焼肉屋に連れて行ってくれました。そして『イ館長、焼酎1本飲ませて下さい』と言って、一杯だけ盃をお受けになりました。私への配慮からでした。10月26日は、先生の3周忌ですが、『イ館長だけ信じる。よろしくお願いする』と言ってこの世を去りました。最後までプロレスの中興を願っていました。歯を食いしばって再度チャレンジしないといけませんね」

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