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不定期連載 韓国格闘家列伝1 奥田正勝編
2009.08.22 Saturday 12:27 | 韓国格闘技
思うところがあって7年間、韓国に住みながら、さまざまなかたちで自分が見聞きしてきた韓国の格闘家、あるいは韓国に関係のある格闘家の素顔やエピソードを紹介するようなコラムをここで不定期に書くことにしました。韓国という国には破天荒で、突拍子もなく、愛すべきバカがたくさん存在します。もちろん格闘技界にも珍事件・迷走話、ズンドコ話が満載(つい最近も経験したばかり)。そんな人間味満載の韓国人格闘家を紹介するシリーズしたいと思います。
■不定期連載 韓国格闘家列伝1 奥田正勝編
■奥田正勝はどこへ消えたのか?
韓国に住んでいた頃、ある日本人格闘家に出会った。
その男の名は奥田正勝。実際に会った奥田は寡黙で言い訳というものをしない僕のイメージするサムライに最も近い男だった。その誠実な人間性から、韓国の総合格闘技草創期には地元の韓国人を凌ぐ人気を誇った。当時、奥田の指導する真武館とは姉妹ジムの関係にあったコリアン・トップチームのメンバーたちをして「この世で最も尊敬する選手は奥田だ。アイツは漢だ」と言わしめた不思議な魅力の持ち主である。
しかし奥田は、07年2月にアメリカで行なわれたWBF(World Best Fighter)で判定負けして以来、忽然と姿を消した。奥田正勝のその後について、克明に報じた記事はないので、彼への思いを整理する意味でもここで紹介しようと思う。
■アマチュア格闘家から韓国へ
奥田正勝は90年代初頭に旗揚げしたリングス、パンクラスといった新興総合格闘技を見て、感銘を受け、高校生の時に九州を拠点とする真武館空手に入門する。選んだ理由は真武館が空手のスタイルよりもリングスと同じような掌底による顔面攻撃、投げ、関節技、寝技が認められた総合格闘技ルールを採用していたからである。奥田は真武館空手が主宰するオープントーナメント“武人杯”で郷野聡寛、中尾受太郎、今成正和といった外敵を迎え撃ち、96年からは重量級で6連覇、無差別級では98年から3連覇を成し遂げる。さらに奥田はアマ修斗やタイタンファイトなどにも出場して実績を残すなど、アマチュア格闘技界では常に上位に顔を出す常連選手となった。
だが、奥田はプロの格闘家になるつもりはなかった。一般人として仕事を探していた奥田は、地元・福岡で造園業を営んでいた父の知人である韓国人と出会い、誘われるままに01年1月頃から韓国に移り住み、ソウルで会社勤めをするようになる。この時、すでに奥田は格闘家としては引退したつもりでいた。ところが、日本のPRIDEやK-1人気の影響を受けて02年に韓国でスピリットMCが誕生して国内で格闘技熱が高まると、奥田の中に眠っていた格闘家の血が騒ぎ出した。奥田はソウルの語学堂に通いながら、さまざまな韓国の格闘技ジムに出稽古を始めるようになる。この時に出会ったのが、キックボクサーの長谷川永哲であり、総合格闘家のRYOである。
総合格闘技が注目され始めたばかりの韓国において、本格的にトレーニングを積んだ者はほとんどおらず、どこに出稽古に行っても奥田に敵う韓国人はいなかった。「自分にも韓国で教えられるものがある」という感じた奥田は、韓国で真武館空手道場を開くことを決意する。
■韓国で道場を開設、そしてプロデビュー
03年7月、奥田は韓国・ソウル市に真武館空手韓国本部を設立し、その師範代となった。新道場の名を知らしめるため、奥田は03年のパンクラス・ネオブラッドトーナメントでプロデビューを果たす。奥田は一回戦で中台宣にKO勝ちしたものの、決勝では中西裕一に敗れ、準優勝に終わった。奥田はプロ格闘家として活動していくことに少しの手ごたえをつかんだが、肝心の道場生は一向に集まらず、奥田は道場で練習したあと、キックミットを枕にして寝る極貧生活を続けていた。
そんな中で奥田は03年8月、スピリットMCから分派したネオファイトに参戦する。1回戦ではキム・デウォンを打撃で圧倒し、KO勝利。同日に行なわれた2回戦でも奥田は1RKO勝ちを収め、格の違いを見せつけた。12月の決勝大会でも、準決勝で現スピリットMCのミドル級王者イム・ジェソクをヒザ十字固めであっさり撃破。決勝戦でもホン・ジュピョ(後にパンクラスに参戦)を圧倒した。だが、やはり韓国は日本人にとって敵地だった。マウント状態や奥田がチョークをしかけているのに、レフェリーはブレイクを命じ、何度も勝機を奪われた。ペースを乱した奥田が2Rにパウンドを浴びて鼻血が出ると、試合はすぐにストップされ、TKO負けが宣告されてしまった。被害者であるはずの奥田は言い訳や抗議もせず、静かにリングを降りた。あまりにも韓国人選手に肩入れする主催者の対応に観客はブーイングを飛ばし、奥田を大いに称えた。
だが、この後も奥田は理不尽な仕打ちを受け続けた。04年9月に参戦したスピリットMCの無差別級トーナメントでは、奥田の対戦相手イム・ジュンスが試合中に足を痛めると、レフェリーはタイムを取ってイムに回復する時間を与えた。不可解なのはレフェリングだけではなかった。30キロ以上も重い相手に、奥田は試合を有利に進めたが、判定でも1-2のスプリットで負けを宣告されている。僕が奥田に出会ったのは、この試合の一週間後だった。
■秋山成勲と奥田正勝
僕は同じ日本人として、ネオファイトやスピリットMCの贔屓判定やレフェリングに激しい怒りを覚えていた。奥田本人に「悔しくないのか」「不満はないのか」という質問をぶつけたが、彼は不満を口にするどころか、こちらが拍子抜けするほど平穏な表情で、「自分が弱いから負けた」とだけ答えた。そのあまりにも浮世離れした佇まいに、「こんな男がいるのか」と衝撃を受けた。KTTの男たちが男惚れするはずである。一度会っただけで、すっかり僕は彼のファンになっていた。そんな奥田の魅力は、韓国の格闘技ファンにも伝わっており、韓国の格闘技大会では、いつも野太い「奥田コール」が鳴り響いていた。それはナショナリズムの強い韓国において非常に珍しい光景であった。
日本では無名に近い奥田が、05年11月の『HERO’S』韓国大会のメインで、秋山成勲の相手に抜擢されたのも韓国での人気が評価されたからだった。この試合で秋山成勲は強烈なパウンドで奥田にKO勝ちし、韓国での人気を確固たるものにするのだが、韓国の格闘技記者たちは日本人の奥田を応援する者が多かった。それは、韓国への愛国心を表明しつつも日本語で通す秋山に対し、理不尽な仕打ちを受けながらも韓国への愛情を失なわず、流暢な韓国語で話す奥田を見ていたからである。だが、そんな裏舞台を知らない韓国の一般視聴者は秋山成勲の「大韓民国最高!」という言葉に熱狂し、奥田には一瞥もくれなかった。その後、ケガもあり奥田はしばらくの間、試合から遠ざかった。
■奥田の驚くべき決断
そんな中、奥田と親しいある人物から連絡があった。その内容は「奥田が最近おかしい。どうやら宗教にかぶれているようだ」というものだった。驚くことに、すでに奥田は格闘技を辞める覚悟までしているという。にわかには信じがたい話だったが、すぐに僕は説得するためにソウルへと向かった。真武館韓国本部の関係者や奥田選手と親交のある人物とともに僕は奥田と対面した。長いあいだ話をしたが、すでに彼は覚悟を決めていたのだろう。寡黙な奥田が話の中で明かしたのは、以下のようなものだった。
「肉体を鍛え、技術を高めれば人は本当に強くなるのか。本当に強くなればリングで闘う必要はないのではないか」
まるでガンジーの非暴力主義、或いはイエス・キリストの博愛主義のような言葉だった。そして、実際に奥田は周囲の強い反対の中、07年2月の試合を最後に、格闘技界から姿を消した。奥田は自らが開設した真武館空手韓国支部の師範代も辞め、ある女性と結婚してソウル市内の大学で宗教関係者になるための勉強をしているという。「奥田は狂ってしまった」。そう話す関係者を何人も見た。彼を宗教に誘った者、或いは奥田自身を愚かだと批判する声も耳にした。
けれども僕には、どうしても彼が盲目的に宗教に熱狂し、自己を見失ったとは思えなかった。それは、これまでに通常の人間なら我を忘れて激怒しそうな仕打ちを受けても、まるで心を乱さなかった奥田正勝という男を実際に目撃していたからだ。彼は「人間が闘う場所はリングだけではない。リングで闘うことをやめるからと言って、強くなることをやめるわけではない」とも言っていた。
奥田の真意がどこにあるのかはわからない。ただ、強さの意味を真摯に問い続け、その強さを深く求めた結果、彼はリングで闘うことに以上の意味を見つけ出したのではないだろうか。彼の言葉を信じるとすれば、奥田正勝という男はまだ闘い続けているのだろうし、自分の闘うべき新たなステージを見つけて、いまも自分を磨き続けているに違いない。第三者の勝手な思いだが、そうであってほしいと思う。少なくとも僕の知る奥田正勝は、試合がないからと言って訓練を怠るような人間ではなく、常に強くなることを志す武道家だった。
リング上で闘うことの意味も、リングを降りる理由も、人それぞれだ。もう二度と奥田はリングに上がらないかもしれない。もちろん奥田本人は大マジメに違いないが、プロ格闘家の最期としては突拍子もないものであることも事実だ。どのような印象を抱くかは人それぞれだが、どうあれ僕は最後までどこか浮世離れした光を放っていた格闘家・奥田正勝をずっと忘れないでいるだろう。
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