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『RYOのイカサマ師日記2』

RYOの半生を綴った手記、第二編です。

※※※※※※
以下『MFIGHT』から引用※※※※※※

『RYOのイカサマ師日記2』“バスケットボールと柔道、秋山成勲とオレの違い”

2007年10月、韓国で『HERO’S』が開催された。その時オレはオープニングファイトに出場して外岡真徳という正道会館の選手と闘った。(後日、この選手は秋山成勲とも試合をして負ける)。そしてこの大会メインイベントは秋山成勲とデニス・カーンの試合だった。

オレは1ラウンドの序盤、KOで外岡選手に勝った。気持ちのいい勝利だった。そして秋山もデニス・カーンを1ラウンドでKOした。この日、たくさんの試合が行なわれたが、話題の中心は断然、秋山成勲であった。

試合後、知人がやってきて「おまえも秋山と同じ大阪出身の在日韓国人なのに、なんでこんなに影響力が違うんだ?」と言ったかと思えば、別の知人は「それは高校の時、向こうは柔道をしてて、おまえはバスケットボールをしてたからだろ?」と言った。

そう、秋山が柔道をしている頃、オレはバスケットボールをしていた。“民族”や“大韓民国”、“在日韓国人・朝鮮”といった言葉に、これと言って関心のなかったオレは高校2年の時からバスケットボールを始めた。ポジションはセンターでレギュラーだった。時々「ダンクシュートできる?」と聞く人がいるので、この場で明かすがダンクシュートはもちろんできる。もっともバスケットボールの球ではなく、テニスボールでの話だが……。

自分の高校が県内で3位に入れば全国大会に出ることができた。だが、オレたちの学校は地区予選ベスト8で3点差で負けて全国大会出場は叶わなかった。全国大会出場の夢が潰えた日、漫画『スラムダンク』の連載も終わった。自分より背が低い相手に、二回連続で蝿叩きブロックに遭ったような悲しい日だった。

高校卒業後、バスケットボールを続けるつもりもあったが、結局バスケットで大学進学はできなかった。オレの通っていた学校が全国大会に出られなかった影響もあったし、バスケットで大学に行くなら入試にも受からなければならなかったが、点数も足りなかった。オレは勉強ができなかったのでなく、しなかったのだ。それはある種の“拒絶反応”のようなものだった。

高校を卒業した後、周りの誰かが「韓国に行ってみたらどうか?」と言った。オレは深く考えることもなく「語学研修にでも行くか」という感じで韓国行きの飛行機に乗った。そしてやはり、深く考えることもなく韓国語を勉強するために語学堂に通い、深く考えることもなく、韓国の大学に進学しようと思った。

オレは語学堂に通って韓国外国語大学の日本語科に入学した。とくにしたいこともなかったが、「同時通訳者は金になる」という話を聞いて入学したのだった。だが当時のオレの韓国語の能力は、それこそどん底だった。語学堂で日本から来た友人と一緒に遊んでいたので、韓国語はうまくならなかった。むしろ韓国にきてもっと日本語がうまくなったような感じだった。

このあと、何度となく玄海灘を行き来しながら紆余曲折を経て、6年もかかって大学を卒業した。勉強するのに忙しいはずなのに、何度も玄海灘を渡った理由は、単にお金がなくなったからだった。そういう時は、日本に帰って土方のバイトをして金を稼ぎ、また韓国に戻ってくる、ということを繰り返した。

■格闘技を始める

多くの選手は女にもてようとして格闘技を始めるケースが多いというが、オレはそれに該当しなかった。23歳になった時、弟に“総合格闘技”というものを紹介されたのだ。弟は「本当におもしろいスポーツだぞ」と言いながら、オレに「格闘技をやってみたらどうだ?」と言った。

ここで弟について説明をしておかなければならない。オレの弟は知っている人はわかるだろうが、日本ではファンからバイクをプレゼントされるほど、けっこう有名なプロレスラーの崔領二だ。

プロレスに入門した動機も突拍子もないものだった。幼い頃、領二がイギリスに留学に行って学校が休みの時、オランダに行き格闘技を習ったことがある。そのジムの主が『UFC1』に出場したジェラルド・ゴルドーだった。そこで格闘技を習った弟はジェラルド・ゴルドーが日本でプロレスの試合をするので、セコンドとして一緒に付いて行った。事件はここで起こった。

弟の整った顔立ちと長身が当時のプロレス団体の関係者の目に止まったのだ。ある関係者は弟に「プロレスをやってみるつもりはないか?」と尋ねたが、このとき領二は「ない」とハッキリ断った。

その後、弟は再びセコンドとして日本に訪れたが、以前に断ったはずのプロレス関係者がまた近づいてきた。すでに断っていたので、その関係者は「プロレスはしなくてもいい。紹介したい人がいるから、ちょっと一緒に会ってみないか?」と言って彼を安心させた。それほど変な話でもなかったので、領二もとりあえずついて行った。

だが運命はここで変わってしまう。弟が会った人物とは、日本の伝説的なプロレスラーで、ZERO1の創立者・故橋本真也さんだった。橋本さんは弟を見てすぐに「君が今回入団することになった崔領二くんか? まあ、頑張ってね」と言ったのだ。こうして領二はいつの間にかプロレスを始めることになった。

一方、オレはオレで韓国でキックボクサーとして活動していたリ・ヨンチョル(※訳者注:長谷川永哲。格闘技通信でも韓国格闘技コラムを執筆していた。ハイパー・キック・リーのリングネームも使う)さんと語学堂で出会い、格闘技というものを本格的に始めていた。この時、韓国には総合格闘技という概念すらなく、K-1も有名ではなかった。オレは日本でも格闘技ジムに入会し、3ヵ月練習しただけでアマチュア修斗の大会に出場した。運よく西日本トーナメントの新人戦で優勝することができた。当時の階級はライトヘビー級だった。しかし、まだプロでやるつもりはなかった。

「優勝したんだから才能はあるのかな?」と思いはしたが、最終的に自分に才能はないという結論を下し、ただひたすら練習をした。だが打撃の練習はまったくやらなかった。誰かの顔を殴ったり、殴られたりするのがきらいだったし、関心もなかった。

それからまた日本でアルバイトをして過ごしていた時、日本の格闘技雑誌に紹介されたスピリットMCの記事を見つけた。イ・ミョンジュという選手が第1回大会で優勝をする姿を見た。彼のヘアースタイルを見て「こんなファッションの選手が韓国ではスターになれるの?」と思った。オレも決して外見はよくないが、韓国でならスターになれるんじゃないかと思った。

オレはまた飛行機に乗って韓国に戻っていた。
 
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『RYOのイカサマ師日記3』

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