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『RYOのイカサマ師日記4』

※※※※※※以下『MFIGHT』から引用※※※※※※

『RYOのイカサマ師日記4』“秋山成勲をまともに理解できない韓国”

2007年10月、『HERO’S』韓国大会、秋山成勲がデニス・カーンを破ったあと、当時の会場の雰囲気は異常なものだった。まるで秋山成勲による、秋山成勲のためのお祭りだった。すべての観客は大韓民国の孝行息子・秋山成勲の名を連呼していた。

その瞬間、オレは寒気がした。自分も韓国人だが、韓国人は本当に単純なバカだと思った。実際にオレも単純でマヌケではあるが、そんなバカのオレでも異常な雰囲気を感じとったことが何より恐ろしかった。秋山成勲の「我々の大韓民国最高!」という言葉に、観客すべてが魅了されているようだった。あたかも第2次世界大戦のとき、何かに導かれた全体主義のように。

もちろんだからと言ってオレが韓国を嫌っているのではない。韓国を愛しているとは言えないが、好きではある。そんな韓国に対する愛情があるから、非難されたとしても批判はできると考えている。韓国が嫌いなら、あえて一年に何度も韓国を行ったり来たりすることはない。

同じ大阪の在日韓国人であった秋山成勲については言っておきたいことがある。彼には日本名の“秋山成勲”という名前があるが、韓国人はあえて“チュ・ソンフン”という名前を使用する。秋山もやはり日本では“秋山成勲”、韓国では“チュ・ソンフン”という名前を使っている。そうした雰囲気を好むマスコミのせいである。

オレも同じだが、たとえ韓国人の血が流れていたとしても、実際は日本で生まれ育っているので、ある程度は日本特有の考え方が身についている。秋山の場合も同じである。韓国人にしては日本人特有の緻密さがあり、日本人にしては韓国人特有のキツい側面を持つ。これは批判ではない。そうした事実があることを認めているのだ。

最近、秋山成勲の『ふたつの魂 HEEL or HERO』という自伝を見た。経済的に余裕のあるほうではないので、買わずに書店で少し読んだだけだが、読んでみて感じたのは「やはり秋山は緻密だ。心の奥深くの本音ははるか遠くに隠されている」ということだった。

自分も格闘技に命をかけている一人のプロファイターとして、秋山成勲という人物は本当に凄いと思う。彼のように緻密に自己管理に徹する部分については、認めているし学びたいとも思う。しかし、その以前に選手 vs 選手として、いつかは秋山成勲と闘って勝ちたいと思う。そして勝ったあとには「RYOがどうやったら秋山に勝てるんだ?」と言うファンに目にものを食らわせたい。

そして、老いぼれた70歳のジジイになって屋台で焼酎を傾けながら「オレはなぁ、昔、あの秋山成勲に勝ったんだぞ……」と管を巻くのがオレの夢だ。もちろん、秋山成勲は格闘技界では自分の先輩なので、実際に会えば尊敬語を使って「先輩!」と言うかもしれないが。

ここで言っておきたいのは、韓国人は秋山成勲という人物を客観的に見ることができないでいるということだ。秋山成勲は格闘家として、内面的にも外面的にもちゃんと認めなければならない部分はある。彼の自己管理能力や努力は、見習うべき点がある。同じ在日韓国人としても共感する部分もあり、「これは違うだろう」と考える部分もある。だがいつかは彼と闘わなければならない。だが自分にとってもっと大事なのは秋山成勲と闘って勝つ前に、オレに生涯初のKO負けを味あわせたイム・ジェソクにリベンジをしなければならないということだ。

韓国の格闘技ファンにも言っておきたいことがある。実現できないことかもしれないが、一応は言っておく。韓国には純粋にスポーツ自体を楽しむ人もいるが、ナショナリズムのためにスポーツを観ている人も多い。国内サッカーの競技場に来て応援する人と、韓国代表の国際戦に来る観客数を見てもそれはわかるだろう。

すべてを発展させるためにはナショナリズムを抜きにして、純粋にスポーツそのものを好きになってほしい。まずは韓国内のスポーツを活性化させて、その上にはじめてナショナリズムがあるべきではないか。もちろん組織も努力しなければならないのは同じで、一般人の思考水準も重要だ。そんな認識が早く変化してスポーツをスポーツとして楽しむことがこの国には必要だと思う。
 
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『RYOのイカサマ師日記5』

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