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NKB観てきた

IMG_8440.jpg今日は小野瀬邦英プロデュースのNKB後楽園ホール大会を観てきた。K-1以外のキック系の観戦は久しぶりだったが、メジャーイベントではあまり感じられないナマの感情が感じられて非常に新鮮だった。

かつてのプロレスもそうだったが、大会は技術もスタミナもない新人がガチャガチャとパンチを振り回すドタバタした前座から始まる。試合が進んでいくにつれてだんだんと選手の実力やテクニックも向上し、試合のクオリティも徐々に上がっていく。セミやメインに登場する選手たちには、会場全体を盛り上げる力量と魅力があり、大会全体のパッケージとして古典的ともいえる段階的組織構造できていて、ちょっとした様式美さえ感じた。

前座の選手の試合は、失礼なのは重々承知ながらも、つい「ホンットに下手クソだなあ……」という思いがよぎる。だが、現在メインを張るスター選手たちも、このような泥臭い過程を通ってみんな大舞台を踏んだのだ。そして、観客もまたデビュー間もない新人のドンくさい姿を見守っていたからこそ、彼らが大きく成長していったとき、大きな思い入れをもって応援できるのだ。それはどんなスポーツでも、奥深く楽しむ方法の一つに違いない。

プロレスでたとえると、30代の我々が新日本プロレスの中邑真輔や後藤洋央紀、棚橋弘至といった選手がトップを張っているのを見て、どこか心の中でおもしろく感じ、「まだ顔じゃねぇ」と言いたくなるのと似ている気がする。メジャーの舞台に突如として舞い降りた超新星や天才児は、センセーショナルで華やかではあるが、何の色も付いていないために古くからのファンにとっては感情移入しにくいのだ。それは我々が彼らの成長物語を充分に目の当たりにしていないからである。

もちろん、マスクもよくスタイリッシュな新世代のレスラーたちが若い女性層を中心に支持を得ていて、団体の運営に貢献していることはわかる。それはわかるのだが、会場ではどうしても古くから見ている永田さんや天山、中西といった選手のほうに感情移入してしまう。さらに時代を遡れば、後塵を拝してきた長州力が藤波に噛みついた事件や“前座の鬼”として長年不遇の時期を過ごした藤原喜明が長州力を襲撃したことに乗れたのも、そこにはレスラーの鬱屈した感情がリアルに発散されていたからだ。

90年代には、永田、天山、中西の世代でさえも、いまの棚橋、中邑の世代と同じように見ていた。「おまえら顔じゃねぇ」と。だが、最近になって彼らに思い入れを持てるのは、我々が彼らの成長物語を知っているからだ。素材は最高なのに、不器用でなかなか芽が出ず、K-1に出て惨敗するなど、迷走した期間の長かった中西学、総合格闘技でヒョードルやミルコにアッサリ秒殺されて強さの幻想が吹き飛んでしまった永田さん、大一番でコケたり悪役を演じようとしても“いい人”を隠せない天山……。レスラーとして彼らの紆余曲折を知っているからこそ、彼らから人間臭い魅力を感じるのだし、不遇の時代や失敗そのものが彼らを観る上でのスパイスとなり、レスラーの年輪そのものがドラマとなる。

最近では新日本プロレスや全日本プロレスも、第一試合から派手な技を見ることができるし、単なるメインクラスのカードを盛り上げるためだけの試合ではなくなっている。いまや“前座”ではなく、単なる“第一試合”になっている。そういった現在の形式を否定するつもりはないが、“タメ”が効いていないと爆発の規模も弱まってしまうのではないかとも感じたりする。『DREAM.9』での所英男の復活に心から感動したのも、彼のここ数年の低迷と、その中であがき続けた彼の姿があったからだ。

NKBの会場には、自分がかつて観ていたプロレス会場でのピラミッドが存在していたし、観客の多くは選手の身内や友人ばかりで、リングの上にいる“俺たちの選手”の攻防に一喜一憂し、大声援を送っていた。選手もその応援に熱いファイトで応え、会場は熱のある空間となっていた。初めて観る選手ばかりであったが、セミ、メインの試合になる頃には、自分の気持が自然と高揚していくのを感じていた。メジャーイベントで選手が激しい試合をしていても、妙に静かでセコンドの声だけ鳴り響く寒々しい光景とは正反対の風景がそこにあった。

試合を見ながら、昔、自分がキックでは日本キック連盟が一番好きだったことを思い出した。スター選手が多くいて、打倒ムエタイとの試合を掲げていた新日本キックや全日本キックではなく、なぜか自分は泥臭くてマイナー感の漂う日本キックの試合を好んで観ていた。それは日本キックのマイナー感に惹かれたわけではなく、かつてのパリーグのように親身になって応援できる選手たちとファンの距離感が好きだったのだ。

自分は日本キックの舞台でうんざりするほど何度も行なわれた小野瀬 vs ガルーダテツの抗争も「またやるのかよ」と思いながらも楽しんでいたクチだが、現在彼らは引退してトレーナーとなって自分たちのジムを開き、愛弟子を育ててリングで闘わせている。

aadf.jpg決してオーソドックスではなかった小野瀬やガルーダと同様、彼らの育てる選手は型にはまらず、ノビノビとした闘い方をしており、個性的で魅力的だった。とくに滑飛タイジ選手は、小野瀬、ガルーダらがもっていた泥臭さに加え、目を奪われるような華やかさがあってすぐに好きになった。

現役時代は小野瀬に負け続けたガルーダテツの愛弟子が小野瀬のファイターたちをなぎ倒す――。師匠と弟子の二世代にわたるライバル構造がいまも楽しめるなんて、昔から見ているファンにとっては贅沢なことである。現役を引退しても彼らが自分たちが作った世界を別の形で守り続けていることに、団体やこのスポーツに対する愛情が深く感じられたし、選手の歴史というものは、現役を引退してもそれで終わりではないということに気付かせてくれた。

すべてが洗練された選手たちばかりで構成されるメジャーイベントも楽しいが、ピラミッド型のヒエラルキーの中で選手の息の長い成長物語を見守るのもまた味わい深い。この日は、いつまでも変わらないスポーツの楽しみ方をあらためて教えてもらった気がした。
 

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